平等性について

人間が平等なのかどうかは何を基準にするのかによっても変わりますが、多くの場合平等ではありません。平等であるように努力していることが、平等ではない証拠です。

不平等は当たり前のことで、それを受け入れることができなければ苦しみ続けることになります。

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能力の平等性

学業でもスポーツでも、ずば抜けた能力を発揮する人がいます。人はそのような人たちを「才能がある」「天才」などの言葉で片付けてしまいますが、子供の頃に才能を発揮する人はたくさんいるのに、大人になっても天才で居続ける人はごくわずかです。

結局、生まれつきの能力というのはスタートラインが違うだけで、努力を続けなければ凡人と変わらないのです。そういう意味では平等であると言えますが、能力が伸びるかどうかは環境によっても大きく左右されます。

子供の頃の生活環境や学習環境を決めるのは、多くの場合が親です。親によって裕福な家庭で育つのか貧乏な家庭で育つのかも決まります。子供が親を選ぶことはできませんし環境を選ぶこともできません。考え方や良い習慣・悪い習慣も子供時代に身につくことが多いので、そういった意味では不平等と言えますが、それはどうすることもできない事実ですので、それについて悩んでも解決はしません。

大人になってからは、行動さえすれば自分の好きな環境で好きな能力を伸ばすこともできますし、意識すれば考え方や習慣も変えることができます。

見た目の良し悪しも能力のひとつと言えますが、顔の系統に関しては遺伝的要素が大きいにせよ、身体の大部分は子供の頃の生活習慣や環境によって変化します。大人になってからでも習慣を変えれば体型や左右のバランスはある程度変化させることができます。

法の下での平等性

法の下では国民は、人種や性別、社会的身分などの差別なく扱われるはずです。法律上はその平等性は保たれているように思いますが、法律通りにはならないのが人間です。

警察官や政治家などの事件のもみ消しがメディアで掲載・放送されることがありますが、おそらく氷山の一角にすぎないのだと思います。何倍か何十倍かはわかりませんが相当な数のもみ消しが行われていると想像できます。彼らは法で裁かれることがないのです。

どう考えても平等であるとは思えませんが、すべての人間を24時間監視するわけにもいきませんし、法律上プライバシーの問題もありますので、どうにかなる問題でもありません。

そういうものなんだと受け入れるしかないのです。事件にならなければ法は介入しないのです。他人のことよりも、自分の時間を生きることのほうが大切です。

不平等であるという平等性

程度の差はあっても、人は誰でもコンプレックスを抱えているものです。言葉を変えれば人は皆、不平等を抱えているのです。誰でも不平等を抱えているという意味では平等です。

不平等というのは基準をどこに持ってくるのかという視点の違いであって、考え方を変えればコンプレックスだったものが個性や売りになる場合がほとんどです。コンプレックスが周りの人とは違う何かであるということを考えれば、個性になるのはすごく当たり前のことだと言えます。

特に日本人は、周りの人と同じでなければならないという強迫的な観念を植え付けられているので、人と違うことを深刻に考えてしまいがちです。同じである必要はありません。

人は皆、不平等を受け入れることができるという平等性を持っています。

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