ティコ・ブラーエとヨハネス・ケプラー

〜完全なものを押し潰せ〜

コペルニクスの「天球の回転について」が出版されてからおよそ半世紀後、ティコ・ブラーエはそれまでの天体観測の精度を大幅に向上し、望遠鏡の無いその時代としては最高精度を誇っており、新星や彗星の観測によって大きな名声を得ていました。ティコ・ブラーエはプトレマイオスの天動説の伝統の中で育ちましたが、観測を続けるうちに疑問を持ち始めていました。ティコ・ブラーエの書斎にはコペルニクスの「天球の回転について」があったことが知られており、その考えを知ったうえで自分なりの宇宙像を論文として発表しました。その内容は「すべての惑星は太陽の周りを回っているが、その太陽は地球の周りを回っている」というものでした。物体が地球の中心に向かって落ちていくことを説明するには、地球が宇宙の中心である必要があると考えたため、このようなモデルになりました。

ティコ・ブラーエはその後、ヨハネス・ケプラーと出会い二人で研究を続けるようになりましたが、自分の観測データをケプラーには見せなかったと言われています。1601年にティコ・ブラーエが亡くなると、ケプラーはその観測データを引き継ぎ研究を続けました。

コペルニクスの地動説の問題点は、宗教的な問題を除けば、「なぜ物体は地球の中心に向かって落ちていくのか」を説明できないことと、「プトレマイオスの天動説に比べ、惑星運動に対する精度が悪い」ことでした。ケプラーは地動説が正しいことを確信しており、なぜ地動説では惑星運動に対して誤差が生じるのかを知るため、ティコ・ブラーエの観測データを調べ始めました。そして1609年、8年という歳月を経てケプラーは研究成果を「新天文学」という一冊の本にまとめ、発表しました。そこでは「惑星は完全な円ではなく、楕円軌道を描く」という誰も予想すら出来なかったものでした。ケプラーの理論はプトレマイオスの天動説以上に、惑星の軌道を完璧に予測できるものでした。

しかし、ケプラーの研究はすぐに認められたわけではありません。完全な円は神聖なものであり、天体は完全な円を描いて回っているという古代ギリシャからの常識が人々の頭に根ざしていました。さらに地動説のもう一つの問題点である「なぜ物体は地球の中心に向かって落ちていくのか」を解決できていませんでした。ケプラーの理論は数学的な計算をするには都合の良い理論というだけのものとして扱われました。

ケプラーは天文学から離れましたが、ほかの分野でも名前を残しています。雪の結晶について考察した「六角形の雪について」という論文では、現在の結晶学の先駆的な考察を行っています。他にも、「光の強さが光源からの距離の2乗に反比例する」という光の逆2乗法則の証明や、のちにケプラー予想と呼ばれる球体充填問題という数学の問題は、400年間誰も証明することが出来ず、1997年にコンピュータを使用し、ようやく証明されました。

ケプラーはパトロンだった人物から、ガリレオ・ガリレイが望遠鏡を使って観測を行っているということを聞いて、文通を始めるようになりました。ケプラーの宇宙論はガリレオ・ガリレイへと引き継がれたのです。

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