援助行動

人間関係の中で重要な位置を占めるのが向社会的行動である。向社会的行動とは、他者に利益をもたらすことを意図した行動であるが、その多くは何らかの援助行動が含まれている。

このページでは、人はなぜ自分の利益にならないような行動をとったり、自分を犠牲にしてまで他者を助けようとするのかをみていく。


生物学的要因

他者を助ける行動というのは、自分や自分の子孫の生存確率を高めるための行動をとるという生物学的な見解に反するように見える。しかし、援助行動によって集団全体にその恩恵が行き渡れば、集団の生存にとっては適応的に働くため、結果的に自分の生存にとっても有利に働くという見方もできる。雇用主と従業員の長期的関係における研究では、会社に貢献する働きをした従業員に報奨を与えたところ、従業員はさらに努力するようになり、仕事を怠けることが少なくなったという。その結果、生産性は上がり、会社の存続と従業員の雇用を確かなものとした。

包括適応度

上記のような考え方とは別に、生物学者のハミルトンは包括適応度という概念を提唱した。これを簡単に説明すれば、自分の子孫だけではなく、自分と遺伝子を共有する他者に対しても生存確率を高めるような行動をとるということである。実際に、血縁関係の近い親族に対するほど援助行動が行われやすいことが、多くの文化で示されている。

社会的要因

返報性

人間社会では、恩を受けたら返さなければならないという社会的規範が存在している。リーガンの研究では、参加者の2人に絵画の評価を行ってもらうという名目の実験を行なった。参加者のひとりはリーガンの助手であり、短い休憩時間のあいだ数分間部屋を離れた。このとき手ぶらで部屋に戻る条件と、部屋に戻ってきたときに「君の分も買ってきたよ」とコーラを渡す条件で群を分けた。その後、絵画の評価が終わった後にリーガンの助手は「新車があたるくじ付きチケットを売っているのだが、何枚か買ってほしい」ともうひとりの参加者にお願いすると、コーラをもらった人はもらわなかった人に比べ2倍も多くチケットを買ったという。

この実験には続きがあり、実験参加者にもうひとりの参加者(リーガンの助手)への好意度を調べると、もちろんチケットを多く買った参加者ほど相手に対する好意度は高かった。しかし、コーラをもらった参加者は、相手への好意度と要求を受け入れる割合の相関関係はまったくなくなっていたのである。つまり、相手への好意度に関係なく、借りがあるというだけで援助行動を行っていたのである。

社会的責任

援助行動はどの文化においても肯定的に受け止められ、称賛されるであろう。逆に援助が求められる場面において援助行動が行われなければ批難の対象となるため、そのような場面に遭遇すれば社会的責任を感じて、援助を行うことが予想される。しかし、援助が必要であるにもかかわらず援助行動が行われないこともたびたび確認されている。実際に1964年にニューヨークで起きた事件では、客観的にみて明らかな緊急事態で目撃者が多数(この事件では38人)いるにもかかわらず、誰も助けようとはせず、警察に電話すらしなかった。

この事件以降「38人も目撃者がいたにもかかわらず、なぜ誰も助けなかったのか」という問いは、多くの社会科学者を悩ませた。しかし、社会心理学者であるビブ・ラタネとジョン・ダーリーは、逆に「38人も目撃者がいたから、誰も助けなかった」と結論し、彼らはこの現象を傍観者効果と名づけた。彼らによれば、多数の人間に援助の責任が分散され、行動を起こす義務を感じなかったために、誰も行動に移さなかったのだという。その後も、複数の研究によって、援助可能な人が多数いると援助を行う傾向を引き下げるという結果が得られている。

ラタネとダーリーはこれらの研究から、人が援助行動に至るまでの過程を意思決定モデルとして提示した。これによれば、以下のような5つの段階に分けられる。

  1. 異常な事態が発生しているという認識
  2. それが緊急事態であるという認識
  3. 援助するのは自分の責任であるという認識
  4. 援助方法を自分は知っているという認識
  5. 援助を行うことの決断

1つ目はまず、異常な事態が発生していることに気づく必要がある。気づかなければ援助しようと思わないだろう。

そして2つ目は、それが緊急を要する事態であることを認識する必要がある。上述の事件においてラタネとダーリーは、援助行動が行われなかった理由として責任の拡散の他に、自分以外の傍観者が誰も行動を起こさなかったために、緊急事態だという判断を鈍らせた可能性を示し、これは集合的無知と呼ばれている。緊急事態というのはそれほど頻繁に起こるものではないので、多くの場合、普通の人が緊急事態であることをはっきりと認識するのは難しい。そこで状況を判断する情報を周囲に求めた結果、誰も行動しておらず落ち着きを払っているように見えたために、緊急事態ではないと判断したのである。

集合的無知は認知的不協和状態の解消に似ている。それが緊急事態であると認識したとしても、周囲の人達の反応が緊急事態ではないと示しているため、認知的不協和状態に陥る。そこで、緊急事態ではないと判断することによって不協和を解消できるのである。集合的無知のひとつの形式は、認知的不協和状態の解消が周りの人間に連鎖的に広がっていくことだろう。

3つ目は、自分に援助をする責任があるという認識である。上述した責任の拡散によって援助行動への義務感が薄れるということがこれを示している。また、ラタネとダーリーの実験によると、緊急事態に気づいたのが自分だけだと思った被験者は、85%が援助行動を起こしたが、自分以外にもうひとり気づいた人がいることを知っていたときには62%に減少した。さらにあと4人追加すると、助ける率は31%まで減少したという。

4つ目は、援助するために自分は何をすればよいかを認識することである。例えば、警察に連絡したり救急車を呼んだりすることも援助行動のひとつであるが、人は緊急事態に遭遇するとパニックに陥ることがあるため、何をすればよいのかわからず結果的に何もしないということが起こる。

5つ目は、援助を行うことへの決断である。例えば「自分が介入することによって騒ぎを大きくしてしまうのではないか」「自分も巻き込まれて怪我を負わされるのではないか」などの不安が、決断を妨げることもある。

人口密度

「都会の人は冷たい」と昔から言われているが、日本以外の国でも同じらしい。

ロバート・レヴィンは、アメリカの36都市での援助傾向を評価してみると、決定的な影響を与えているのは、都市の大きさではなく人口密度であることに気づいた。人口密度が高いほど援助行動が少なくなるのである。

この結果は上述した傍観者効果と一致するものだが、その他にも理由がある。過密する人口によって引き起こされる刺激の量とストレスが増大し、それに対処するために自分の殻に引きこもるので、周囲の人にあまり関心をもたなくなるのだという。また、人口密度が高い都市では交通機関が発達し、さまざまな店舗も充実しており不便に思うことが少ないため、援助をあまり必要としない。その結果、援助をしなければならないという規範を刺激するようなきっかけが少なくなるのである。

個人的要因

自己評価の維持

寄付やボランティア活動を行う人たちにその動機を尋ねると、個人的な価値観に一致するという回答が大半を占めるという。これには建前もあるかもしれないが、個人的価値観と一致するということは自己概念と行動が一致しているということでもあるため、自己評価を維持する活動として捉えることができる。「自己評価」のページでも記載した通り、人は自己評価を高く保つよう動機づけられるため、心理学的には矛盾しない。実際の研究においても、向社会的な強い個人的規範をもつ人は、ボランティアなどの向社会的活動に積極的に参加する傾向が確認されている。

ビアーホッフらは、援助行動を行いやすい人たちの特徴を以下のように挙げている。

これらの傾向をもつ人は、援助が必要とされる状況に遭遇したときに援助を行わなければ、自己評価は低下し不快な気分になるだろう。これが何度か繰り返されれば、そのような状況に遭遇しただけで不快な気分になるか不快な気分を予期するようになるため、これを解消するために援助行動を行いやすくなると考えられる。

情動の制御

緊急事態に遭遇すれば大抵の人は心拍数が増加するが、それは心地よいものではなく不快な経験である。ピリアヴィンらは、このような否定的な情動的覚醒が強いほど援助行動を行いやすくなるとし、覚醒:コスト-報酬モデルを提唱した。このモデルによれば、援助行動が行われやすくなる要因は以下の3つが挙げられ、これらすべてがいくつかの研究によって確認されている。

また、シンガーらの研究によると、誰かの苦痛を目にすると、実際に痛みを経験したときにみられる情動的な苦しみを感じる脳領域が活性化されるという。つまり、他人の苦痛は自分の苦痛でもあるというわけだ。

利他的か利己的か

援助行動といっても、必ずしも他者に利益をもたらすことを意図した行動とは限らない。自分の利益のために他者を助けることもある。同じ援助行動でも、他者に利益をもたらすことを意図した行動は利他的行動と呼ばれ、自分の利益のために行われた行動は利己的行動と呼ばれる。これまで、このページでこれら2つの言葉をできるだけ使わないようにしてきた理由は、この2つを明確に分けることが困難なことである。例えば、生物学的要因のところでも述べたように、利他的にみえる援助行動でも、長期的に見ると集団全体の利益となり、その結果自分の利益となるため、利己的行動と捉えることもできるのである。

心理学的には、援助によって得られるものが外的報酬か内的報酬かによって区別されることがある。外的報酬とは物やお金、地位や名声などで、内的報酬はやりがいや満足感などとなるが、この定義で分ければ気分や情動の制御も内的報酬ということになる。また、内発的動機づけによる援助行動を利他行動と定義することもある。しかし、これらは「利他」「利己」という本来の意味からすれば、すべて利己的である。

このような観点から、純粋な利他的動機、すなわち相手の幸福や健全だけが動機になる向社会的行動が存在するのかどうかについては、懐疑的になりやすい。しかし、バトソンらは、援助行動が自己利益のためになされることがあると認めながらも、共感が強く働く状況では、利己的な動機が抑制され利他的な動機へと変化する可能性を示した。これは共感-利他性仮説と呼ばれている。

この仮説によれば、相手の立場に自分を置く視点取得というプロセスによって相手に共感的になり、利他的になりやすいという。バトソンらのいくつかの実験では、援助者である実験参加者と援助を必要としている人の価値観や関心がよく似ていると告げ、共感的配慮を経験させることによって、利己的な行動をとれる状況においても、自分にとって不利益となるような利他的行動をとりやすいという証拠が得られている。これは、利己的動機が抑制され、利他的動機によって行動していることを示している。

しかし、バトソンらの研究は別の問題を浮彫にさせた。相手に共感することによって利他的動機が強く働くことは納得できるものであるが、バトソンらが実験で用いた方法を見ても分かる通り、共感しやすい相手というのは類似性や親近性の高い相手である。これは自分と遺伝子を共有しているという合図になる要因と一致するため、結果的に自分と同じ遺伝子を残そうという利己的動機に帰結するのではないかという議論になる。

純粋な利他的動機が存在するのかどうかについては、はっきりとした証拠はないが、共感が援助行動に大きな影響を与えていることは間違いないだろう。


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