世論に対する認識

世論と聞くと多くの人は世論調査を思い浮かべる人も多いのではないだろうか。実際に内閣支持に関する調査が頻繁に行われていることは、テレビニュースや新聞などのマスメディアを見ていてもよく分かる。これ以外にもさまざまな内容の世論調査が行われているが、私たちが直接その内容を知るのは、多くの場合マスメディアを通じてである。

しかし、定期的な世論調査はそれほど古くから行われていたわけではないし、マスメディアが発達し始めたのもごく最近である。それ以前には世論を知ることができなかったというわけではないだろう。現代人の私たちはマスメディアの情報に大きく頼りはするが、それ以外にも周囲の他者とのコミュニケーションやインターネットなどの情報を通じて、多面的に情報を得ている。そこに自分の判断を加え、世論の状態を認識しているのである。


社会や政治の動向についての認識

日常生活を送る上では、政治に関心のない人でも社会の動向には目を向けざるを得ない状況は多い。例えば、二酸化炭素の排出量を削減しようという社会的な動きの中でそれに反するような発言や行動をとれば、社会的な信用の問題に発展しかねない。発電所の事故などで節電が呼びかけられているなかで、我関せずといった態度を取れば白い目で見られるだろう。他にも税金や社会保障など、自分に直接影響するものとなればなおさら関心を向けざるを得ない。

自分にとっての利害だけではなく、社会全体の利害に目が向いた認識というものもある。これはソシオトロピックな認識と呼ばれ、社会全体の動向を集合的な経験としてヒューリスティック的に認識している。

シアーズらの研究によれば、人々は自分の経済的利害で投票するというよりは、政治的なシンボルに対して強く反応するという。多くの人が共通の認識を喚起するような、特定の視点から政治を見る方法である。日本においても「聖域なき構造改革」「美しい国づくり内閣」などのさまざまなスローガンが掲げられてきたが、社会の動向とマッチしている部分もあったことから、多くの人が共通の認識をもちやすかったのではないかと思われる。

ただ、これらは個別の政策を吟味しているわけではなく、ヒューリスティック的な認識の結果得られたイメージである。シアーズらは、政治的なシンボルによって偏見や差別が覆い隠されている事例があったことを研究によって示している。

情報の歪み

世論に対する認識というのは、社会全体の動きという抽象的で複雑な対象についての認識であるため、ヒューリスティックに頼らざるを得ない面も少なからず存在している。ヒューリスティックによる認識が偏りや歪みを生じさせやすいことはこのサイトでも述べてきたが、情報が媒介する過程で生じる歪みもある。

情報の媒体として代表的なものはやはりマスメディアである。マスメディアはさまざまな制約の中で、必ず情報の取捨選択を迫られる。「メディア効果論」のページでも述べたが、その選択の過程で議題設定やフレーミングといった現象が生じるため、歪みや偏りの発生を完全に回避することはできない。また、こうした情報の歪みは意図的なものとは限らず、情報を受け取る側の解釈によって、結果として情報の偏りを指摘されることもあるし、何らかの誘導や圧力によって報道せざるを得ない場合もある。

知識問題

複雑な社会を認識するためにはヒューリスティックに頼らなければならないことも多いが、それでも能力が追いつかないことがある。これはヒューリスティックが経験によって成り立っている部分が大きいことと、情報を受け取る側の情報処理能力の不足しているという理由が挙げられる。世論の認識が必ずしも十分にならない理由には、こうした個々人の理解能力の差によるものもある。

理解能力の個人差の問題は、世論の研究の中で研究者を悩ませてきた問題でもある。論理的な理解と感情的な理解、公衆と大衆、知識のある人と無知な人という概念のうち、前者だけを世論と定義するのか、あるいは後者も含めるのかという問題である。現代では世論を狭く定義しようとすることは少なく、むしろ誰もが適切な情報処理が可能となる条件を探るべきだという方向性が強い。


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